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座 禅 猫

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カトリックへ

カトリックへ   (05年5月27日)




最近、カトリックに興味をもっていらっしゃる方からのメッセージをいくつかいただきました。自分自身を振り返る意味でも、私のカトリックへの転会をまとめておこうと思いました。これは私の場合のことで、プロテスタント教会への否定ではありません。こういう人もいるということでお読みください。

元の文は、2004年の堅信式前に書いた友人へのメールです。状況説明等を(大幅になってしまいましたが)付け加えupしました。使って良いといってくれた○○さん、どうもありがとう!

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<あいさつ>




○○様、

カトリックに転会希望とのこと。私も、自分自身のことを思い出しました。

私もずっとプロテスタントでしたし、今でもお世話になった人たちと教会に感謝しています。そしてプロテスタントもカトリックも正教会も、その他のキリストを信じる人たちみんながひとつであってほしいという願いがあります。

でも、今はこうしてカトリックに転会しようとしています。そのことを少しお話しますね。



<プロテスタント時代>




プロテスタントで洗礼を受けたのは学生時代です。当時は熱心に通っていましたが、働くようになってから度重なる転勤や激務のために教会に行かれない年月が過ぎました。また、私自身、自分の考えや行動が、クリスチャンとしてふさわしくないような気がして、しかも、自分自身を改めようという気も起こらず、そのまま時が過ぎました。

結婚してからは、ある程度落ち着き、プロテスタントの教会に通うことができました。その後、アメリカへ転居。

さて、どこの教会に行ったら良いのか、と困りました。日本キリスト教団のような合同教会はありません・・・。



<どこへいけばいいのか>




電話帳には数百もの教派のリスト。そのどれを選んでいけばよいというのでしょう。途方にくれてしまいました。やはりそれぞれ教義上、強調するところがあるのでしょうし。

私は教派について考えるようになりました。プロテスタント諸教派の発生には、歴史的な必然性があったと思っていました。

でも、これでいいのか、という思いも同時に起こったのです。これから何回もすることになりそうな引越しのたびに、教会選びを一からするのは大変です。 もし、行った教会が、ニュースでよく見るような政治と深く関った保守的なところだったり、カルト的だったり、偏ったところだったら困ります。

私は観光地にあるゴスペルが有名な教会(メソジスト系)にたまに行ったり、大きくて安全なところ(!)という観点から、米国聖公会の教会に行ったりしていました。その時点で、カトリックは全く選択肢に入っていませんでした。 



<ミサで見たものは>




教会に通えず、数年過ぎた頃、職場の近くにカトリック教会を見つけました。ちょっと覗いてみるつもりで入ったら、たまたま平日ミサがはじまるところ。私はその様子を一番後ろの席で見ていました。

ぽつぽつと集まる人々が祈りをささげ、聖体拝領する姿。平日の朝、静かに祈りをささげる人がいる。こういう信仰のあり方もあるのだなと意外な感動がありました。

当時はまだ、カトリックは間違っていると単純に思い込んでいましたので、何か近寄ってはいけないような、憧れと同時に後ろめたさをもったのを覚えています。

それからぽつぽつとミサを見学するようになりました。その落ち着いた祈りの雰囲気に惹かれながらも、反発を感じていたのは次のような思い込みからです。



<カトリックに対して持っていた印象>




(当時漠然と感じていたことを書きます。なぜそう思っていたかは、多分、カトリックによくない思いをもっている人の言葉を、聖書研究会などで聞いたことがあったからだと思います。ただ、これはたまたま私がそういう人の言葉を聞いたことがあっただけで、多くのプロの人がそう思っているわけではありません。気を悪くされる方がいたらごめんなさい。)

1.カトリックはマリアを拝んだり、聖人を拝んだりしているのではないか。
2.迷信が多いのではないか。
3.聖書に付け加えをしているらしい。(煉獄とかプロの聖書にないことを言っている)
4.歴史上さまざまな罪を犯している。
5.教皇制って理解できない。
6.神父が信徒と神の間に入っているらしい。(罪の告白をなぜ神父に?)
等々・・・。

立派なアンチ・カトリックですね。

そんな私に、知人の、「カトリックは聖母崇拝してるわけじゃないらしいよ」という発言は驚きでした。



<間違っていた・・・>




カトリックが聖母崇拝していないのなら、今まで思ってきたことは全くの誤解ということになります。

それから、教会史、元修道女の書いた本、ビデオ、護教論・・・、そんなものを読み始めました。すると、今まで思い込んでいたことが、誤解であることがわかってきました。

マリアについては、彼女の信仰、彼女を通してイエスがこの世に来たことを深く覚え、親しんでいるのだということ。マリアは信仰の対象ではないということ。ロザリオの祈りは、イエスの生涯を黙想する祈りだということ・・・。

聖人は信仰の先輩。プロテスタントで言う「兄弟姉妹」の枠が広いのだということ。絵や像は、リマインダーであること。等等・・・

一番大きなショックは、聖書の、いわゆる「続編」といわれている部分のことで、実は、宗教改革者が削除していたというのが本当だった事です。(これは、どの原本から取ったかということがからんできて、一言でかたずけられない問題ですが、「聖書のみ、信仰のみ」を柱とする改革者がそれを取らなかったということに驚きました。「カトリックが付け足している」というのは、全くの誤解だったのです。)

「・・・だから、カトリックは違うのでは?」と思っていたことごとくが、崩れていきました。



<誤解の出所>




後でわかったことですが、私がもっていたような偏見の出所は、大きな誤りを含みながらも1962年の出版以来版を重ねている「Roman Catholicism」(Loraine Boettner著 1962)がもとだとのこと。それ以後の本に多く引用され、プロテスタント側からのカトリックのとらえ方に、不幸にも大きな影響を与えてしまったのだとか。



<いつも憧れていた>




偏見が取り去られるにつれ、さまざまな出来事が思い起こされました。

子供の頃、公園で子供たちにお祈りを教えていた修道服のシスターを遠くから見つめていた私。熱心な仏教徒の両親に無理強いされ子供の会合に出ながら、神様にお祈りしたいと思っていた私。

お金をためて出かけたスペイン、どの街にもあったカテドラル。ステンドグラスにたくさんのキャンドル・・・。歴史あるマリア像の置かれた洞窟。ぎっしりとはられた愛する人の写真と髪の毛。こうやってささげられた想いは間違いなのだろうか。ロヨラが発心したモンセラットの修道院。ここから日本への布教が始まったのだと複雑な気持ちで思う私。

宗教画、宗教音楽、建築に惹かれながら、何かストップがかかっていたような私。初代教会から宗教改革までの歴史がすっぽりと抜け落ちているような感覚に満たされない思いをしていた私・・・。

調べごとをしようと見るインターネットサイト。カトリックの人の書いたものにより共感できることを不思議に思う私・・・。

・・・思えば、いつも、心はカトリックに惹かれていたのです。



<私のために?~驚きの説教>




私は、近くのカトリック教会の平日ミサに行きました。その日の司祭のお話。

「カリフォルニアのオレンジカウンティーでは、電話帳に200以上ものキリスト教の教派がリストアップされているそうです。この分裂はどういうことでしょう。人を見てはいけません。人を見るとわかれることになります。私たちの視線は、常に天へ、神へと向けられるべきなのです・・・」

私はもう迷いませんでした。アメリカに来てから人と接することが億劫になっていたことを思うと今でも信じられませんが、私はまっすぐにオフィスに向い、カトリックに興味があることを伝え、典礼担当の方のアポイントを取りました。・・・



<堅信を控えて>




それから、担当の方との話し合いを1年間。グループの入門講座を半年間取り、今に至るわけです。カトリックのもつ伝統・普遍性に、今やっと安心して教会にいけるような気がしています。

長い歴史に培われた典礼、記念日などは、案外、日本人にあっているのでは、と思います。聖人として、先人のキリスト者の生き方から学ぶものも多く、うれしいです。実は、堅信のとき、霊名に日本に関る人の名前をもらおうと思っています。

長くなってしまいました。なんだか自分のために書いてしまったようです。読み捨てておいてください。

それでは、これからますます忙しい日々になることでしょうが、どうぞ体に気をつけて。お子さんと楽しく過ごしてくださいね。またページにお邪魔します!

2004年2月21日
いう

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この手紙の後、2004年4月に堅信を受けてカトリックに転会しました。
長い文を読んでくださってありがとうございます。


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